宗教法人「生長の家」(国際本部)に対する〈私の質問〉(平成24年9月26日)
「谷口雅春先生を学ぶ会」副代表 前原幸博
平成24年9月21日付けで生長の家本部のホームページに宗教法人「生長の家」(国際本部)名で掲載された“ブラジルにおける「谷口雅春先生を学ぶ会」の講演について” の「見解」について、〈私の反論〉を掲載して、(国際本部)からの〈再反論〉を期待しつつ待っていましたが、今に至るも何の応答もありません。
そこで、今度は私の方から、(国際本部)に〈逆質問〉をさせていただきます。
それは、今回のブラジル講演で、私が最も言いたかったことについて、どういうわけか先の(国際本部)の「見解」には何の言及もなされていないからであります。
当然、(国際本部)は、私のブラジルでの講演は、すべて入手している筈です。
それなのに、(国際本部)は、なぜ言及しなかったのでしょうか…?
そうです、私に言わせれば、それこそが(国際本部)にとってはどうしても触れたくない、いわば弱点だったからです…?
それでは、私が最も強調したかったこととは何か…?
それは、質疑応答に中にあった、「昔のように一つの生長の家になれないのか?」という質問に対する私の回答であります。
私は、それについて、概要、次のように回答しました。
…この問題のキーポイントは、「生長の家大神-総裁・副総裁-御教」この捉え方にあります。今の教団がこんなにもおかしくなってしまったのは、生長の家大神の「神意」が誰に天降るのか、その見解からきています。
今の教団は、その字句通り「総裁」にある、つまり谷口雅宣総裁にあるというわけです。
だから、その時々の「総裁」の考え方が「生長の家」の教団の「教え」になってしまう。
それを称して、生長の家の教えは時代によって説き方が変わる、というわけです。しかし、それで本当にいいのでしょうか?
「総裁」によって説き方が変わるのならまだしも、説いている「内容」が違ってしまったらどうなるのでしょうか…?
今は、むしろ、説き方ではなくて、説いている内容そのものがおかしくなっている、それこそが根本の問題なのです。その最たるものが、この度の「讃歌=経本」です。
これが、どのような理由で出来たか?
「聖経」を補強するものとして作成されたのです。
皆さん、「聖経」は補強されなければならないと思いますか?(補強という言葉に、参加者は衝撃を覚えたように感じました)。「聖経」は補強されなければならないということは、谷口雅宣総裁が「聖経」は不完全だと思っているということを意味します。
こういうことがまかり通るのは、結局、「総裁」を谷口雅宣総裁として捉えるからです。
ここまでおかしくなってしまった以上、やはり「総裁」というのは、原点に帰って、尊師・谷口雅春先生であると決めるべきだと思うのです。
そもそも、これが記されている『菩薩は何を為すべきか』を策定した時代は、それしか念頭になかったのですから。
もう一度、これを策定したときの理念に戻って「生長の家大神-尊師・谷口雅春先生-御教」こうなってはじめて、生長の家は一つになれる。生長の家教団がそれに同意しない限り、私は一つになれる道はないと思います。
むしろ、ここまで違ってしまえば、敢えて無理して「一つ」になろうとするよりは、谷口雅春先生についていく人、谷口雅宣総裁についていく人、それぞれ、信徒に自由に選択させたがいいのではないでしょうか…?
今回、ブラジル伝道本部からは、講演会に参加したら講師資格を剥奪する等の脅迫があったやに聞きましたが、谷口雅春先生が最も嫌悪されたのが脅迫で信徒を雁字搦めにするやり方でありました。
それを行ったということは、今のブラジル伝道本部は、少なくとも谷口雅春先生の「教え」に背いたと言わなければなりません。
そういう圧力がかかる中で、こうしておいで下さった皆さんに、心から感謝申し上げます。
以上が、私の回答であります。ここには、今の教団についての、私なりの根本的な問いかけがあります。
しかし、この回答について、今回、(国際本部)は一切、言及しておりません。
ぜひ、私のこの「回答」につき、(国際本部)の「見解」をお願いする次第です。