谷口雅春先生の教え
- 生長の家大神
- 神の三義
- 唯神実相
<真理解説>
み教えキーワード①「生長の家大神」
生長の家の家大神は住吉大神です。この住吉大神は、またの名を塩椎神、塩筒之男神と申し上げる神様であります。『古事記』にあらわれた住吉大神は、同書においては塩椎神と現われておられ、水と塩とをもって浄める海の神様として現われられた上筒之男神、中筒之男神、底筒之男神という三柱の神様でありまして、総じて塩筒之男神とも申し上げます。
まず、住吉大神は伊邪那岐大神の宇宙浄化の御禊祓の、最後の浄化作用としてウミの神としてお生まれになり、伊邪那岐大神の左の眼より天照大御神がお生まれになる下準備として浄化の働きをなされて、天照大御神の御降臨を導いたのであります。
また、住吉大神は導きの神であり、『古事記』によりますと、日本皇室の御先祖の日子穂手見命が、兄君の釣針を借りて海に出てその釣針を失ったとき、龍宮界へご案内して釣針を得られた道案内の神、塩椎神であらせられます。
さらに、塩椎神は邇々芸能命が天降りますときに、事勝国勝神として現われられてご案内し、「此処に国あり」とお導きして、すべての事に打ち勝ち、国が打ち勝つところの働きをなさいました。また後に、神武天皇が日向の高千穂におられて、「何処に都を作れば八紘一宇の世界を建設するのに都合がよいか」と考えておられた時に、「東の方に美し国あり、そこへ行って都を造ったならば、必ず世界を統一することができます」と申し上げて、道案内をなされた東道神が塩椎神です。
さらにまた後には、仲哀天皇が崩御なされた後に、住吉大神は神功皇后に神懸りになって、三韓征伐の道案内をしておられます。住吉大神は、塩筒之男神とも現われられる海の神様でありますから、神功皇后の率いられる軍艦を新羅に導かれて、潮満珠の力によって海水を満潮以上に高めて津波のようになし、新羅の都を水浸しにしました。そして、神功皇后の海軍が新羅の都に横づけになった時に、新羅王は、「吾れ聞く、東に神国有り、日本と謂う。亦聖王あり天皇と謂う。必ず其の国の神兵ならん」と言って、降参したと『日本書紀』には記されてあります。 このように、住吉大神は宇宙浄化の神であられ、国の重大事にあたって現われられて、その導きをなし給う神様でありまして、谷口雅春先生は「住吉大神は宇宙本源の神があらわれて宇宙を浄化し住み吉き世界にせられるお働きのときの名称であります」(『神の真義とその理解』)と述べておられます。
この住吉大神をお祀りしているのが、兵庫県神戸市の本住吉神社であり、谷口雅春先生が住吉村に住んでおられて、毎日、本住吉神社にお参りなさっている頃に、大神から啓示を得られて生長の家の教えが誕生したのでありますから、生長の家の本尊神である生長の家大神は、住吉大神のことであらせられるのです。
谷口雅春先生は、日本国家の混乱、人類意識の迷妄を、住吉大神のご神威によって速やかに浄化し消尽することを願われて、昭和五十三年に、九州長崎の地に龍宮住吉本宮を御造営なされました。
住吉大神を顕斎する住吉本宮造営の意義については、谷口雅春先生は『生長の家』誌昭和五十年九月号に於いて、次のように説いておられます。 「龍宮から住之江大神の御神威の出現を願って、この世界を浄化して頂いて、天照大御神の御光を六合に照り徹らして頂く道を開いて頂き、日本国家を千万年安泰にする霊的礎を築くために建立する住吉本宮であって、吾々個人が御利益を貰うために拝むとかいう、そんなお宮ではないのです。端的にいえば、鎮護国家を目的とするお宮であって住吉大神の御出御をお願いするための社である。それが〝龍宮住吉本宮”である」
(「谷口雅春先生を学ぶ」平成23年1月号)
<真理解説>
み教えキーワード②「神の三義」
「万教帰一の神示」に、「われに姿かたちあるように言うものあれどもわれは姿なきものである。われは道である、われは霊性である、智慧である、愛である、生命である、われは如来である、われは一にして多である」とあります。神示でありますから、ここで「われ」というのは神御自身のことであります。
このように、宇宙大本源の神様には姿形がありません。しかし、姿形なき本源神としての超越的な絶対者は、普遍的な法則として宇宙に静かに充ち満ちているだけでは、その本質である愛を成就することはできないのです。
それ故に、絶対者の慈悲を体現したところの、相対的に現われる人格神、または天使、または菩薩が現われなければならないのであります。つまり、神が救済を成就しうる本当の神となるためには、超越的絶対神が相対的人格神として現われ給うて、救済の御業を現実になされなければならないのです。人を救うためには、神の救いの霊波が人格的に現われられる必要があるのであります。「第一義」という言葉は、本来の意味においてということでありますから、宇宙に満ちておられるところの姿形が見えない、無相の神様が第一義の神であります。
「第二義」の神というのは、その第一義の無相にして無限相の神様が、相対的人格神として現われ給うた姿であります。どこにでも満ち満ちておられる神様が、例えば「阿弥陀如来」として出てこられたり、「住吉大神」として出てこられたり、あるいは「観世音菩薩」として出てこられたり、いろいろの仏様になって出てこられるのであります。これを、化身の神様とも、方便身の神様ともいうのであります。
また、神は自己の個性的な顕現をもって、自己内在の無限を表現し給うのでありますから、同一個性をもって万物が現われることを嫌い給うのであります。それゆえに、絶対者としての無相の神様が、一神即万神としていろいろの使命を持つ神々を顕現し給うのであります。
「第三義」の神様は、霊魂の神であります。霊魂の神というのは、物質ではない一種の幽質で出来ている幽体といわれる体があって、神社に神様としてお祀りされている、神格を得た人間の霊魂であります。
乃木神社に祀られている乃木希典大将、東郷神社に祀られている東郷平八郎元帥、太宰府天満宮に祀られている菅原道真公などの霊魂であります。このような霊魂の神は、個別の霊でありますからそれぞれ個性があります。それぞれ神様としての職責が異って、性格も異なります。したがって受持が異なるわけで、全能というわけではありません。その神様に、何でもかでも祈ればきいて下さるという訳には行かないのであります。霊魂の神も神様ではありますけれども、「宇宙の大神」ではないのであります。
しかし、宇宙の大神の一つの表現の中心として、個性的に現われていられるという意味においては、私たちが神の子であるということと同じであります。
このように、神様の現われとして「三義」の意味があるのでありますが、これはあくまで人間の側から見た分類であります。
生長の家の本尊神は、住吉大神であらせられますが、その現われの面から言えば応化神であって「第二義の神様」であります。しかし、第二義というものが第一義とはなれてあるのではなくて、第一義の中に第二義が包まれていて、具体的な救済の手をのべるためにあらわれて来られるのであって、第一義の神様が救済の手をのべる働きとして、人格神として現われられたのが住吉大神であります。
観世音菩薩、久遠のキリスト、七つの燈台の点燈者、白髪白髯の翁も、みな同じことであります。
(「谷口雅春先生を学ぶ」平成23年2月号)
<真理解説>
み教えキーワード③「唯神実相」
我々の住んでいるこの環境が、どういう世界であるかと考える、いわゆる世界観には大きく分けて二つがあります。唯物的世界観と唯心的世界観がそれであります。
唯物的世界観は、この世界が物質と物質との偶然的な集合によって成り立っているとみる世界観であります。唯心的世界観は、この世界の運行に何らかの有目的的な意志を認め、世界がその心によって統括されているとみる世界観であります。
唯物的世界観では、この世界には物質以外のものは存在しない。生命というものも、偶然によって誕生したと考えるのでありますから、人間の運命も偶然によって支配され、意味もなく滅んでいくと考えるのであります。従って、唯物的世界観からは、生命の尊厳や人生の意義などということは、見いだすことができません。
一方、唯心的世界観はこの世界の存在に、ある意志を認めるのでありますが、その意志が一つであるか、複数であるかによって、一元的唯心論、二元的唯心論、多元的唯心論に分かれるのであります。
一元的唯心論は、この世界にただ一つの意志を認めるのであります。しかし、一つの意志とはいっても、その意志には善悪の別はなく、ただ盲目的に世界を支配しているという、哲学者のショーペンハウエルが説いたような世界観は、盲目的一元唯心論であります。
また、善と悪の二つの心が対立しつつ、この世界を導いていると考えるのが二元的唯心論。さらに、この世界を支配する複数の意志、あるいは心を認めるのが多元的唯心論であります。
この世には、神と悪魔が存在して争っているとみるような世界観が二元的唯論、この世には複数の神々がいて、それぞれにバラバラに世界を統括しているというような世界観は、多元的唯心論に入るわけであります。
これに対して、生長の家で説いている世界観は、実在する世界は善一元である、本当に存在するのは善なる神のみであるとする世界観でありますから、一元的唯心論になるわけでありますが、その一元の心的存在は善なる神であり、全ての存在は神の創造された善一元の世界であるとするのでありますから、唯神的な善一元的世界観であります。
ところが、実際に我々の住む世界は、善も悪も現われている世界である。この世は決して善ばかりではない、現実には悪も存在している。病気という悪もあれば、不幸という悪もある、いろいろの争いもあるように現われている。しかし、それは単に現われているだけであって、本当に実在するものではない。本当にあるものは、神の創造された実相の善一元の世界であります。
この現われの世界は現象世界といって、その現われは本当にあるのではないのであります。現われの世界は、我々の心が現わしているのであって、本来無い。
病気は本来無い、不幸も本来無い、争いも本来無いのです。現象の肉体も無い物質も無い。この我々の心が現わしている現象世界を否定しきったときに、本当にあるところの実相世界が現われる。その本当の実在の世界は、神一元の世界でありまして、完全円満なる実相世界であります。
ですから、生長の家の世界観を特に「唯神実相」の世界観であるというのであります。この「唯神実相」が、生長の家の根本真理である。そして、この「唯神実相」は単なる空理空論の世界観ではないのであって、万物の実相を心の眼で観たときに、実相の姿が現われるのであります。
その実際例は、多くの体験談に見ることができるのでありまして、意地悪な姑の実相を観て拝んだら、優しい本来の姿が現われたとか、夫や妻の実相を礼拝したら不完全な夫や妻が完全円満なる姿に変わったとか、子供の実相を拝んだら、劣等児が優等生になったという多くの体験があるのであります。
(「谷口雅春先生を学ぶ」平成23年3月号)